大好きを貫く。
誰かが、もしくやは本や情報がやった方がいいと言ったからやるって、悪くはないけど、「自分もいい!」って思わなかったらたぶんあまり意味がない。
これ健康や美容や痩せるのにいいから食べた方がいいとか、これ儲かるから乗っかった方がいいとか、瞑想はいいらしいとか、神社参拝はいいらしいとか、みんなが並んでる店だからいいらしいとか、今年の流行だからとか、占い師が言ったからやるとか…笑
そーやっていつまでも、誰それが言うからを選び続けると、自分は何がいいのか、さっぱりわからなくなるということになる。
その「誰か」が、自分にとっての師と思ってる人だったり、理想な存在ならば話は別だけど、わたしにとってのそういう存在ってやはり〇〇した方がいい!なんてあまり云わない。
だから、真似してやってみようとかなと決めるのは自分しかないってことになる。
「こうした方がいい。」もなければ、
「こうしない方がいい。」もない。
本当はそもそもないと思ってる。
今はその方角に行くなとか、今年は大殺界だなら動くなとか、あの食べ物は絶対に食べない方がいいとな、髪は染めると絶対よくないとか、下着はコットンじゃないと駄目だとか、そんなものは本当はないと思う。
わたしはお肉は食べないし、下着はコットンが好きだし、髪はヘナを使うし、大殺界とか全く気にしてない。
でも、ただそれが自分にとって心地よくて、自分がいいと思ってるだけなの。
そして、こういう日々の小さな選択と、自分の理想の生き方を選択して行くって本当は全部繋がっている。
「自分の選ぶことは間違えなんじゃないかしら?」とか、「もっと正解があるんじゃないかしら?」とか、どんどん自分から遠くなる。
そのやり方で本当にいいのかな?
選ぶときは、本当は至ってシンプルなはず。
『美味しそうだから、楽しそうだから、欲しいから、気になるから、気持ちがなんだか良さそうと感じたから!」
選ぶときはそれでいい。
親や誰かからもしかしたら、
「それやって、なんの意味があるの?」「それで、食べて行けると思ってるの?」「もっと、役に立つもの選びなさいよ」「そんなの選んだら損するよ」
とか、言われてきてきて、いつのまにか自分自身もすっかりこの考え方が染み込んでしまったのかもしれない。
でも、そんな風に私たちは生まれて来てはいないし、意味あるかないかは関係なく、欲しいものは欲しいし、やりたいことはやっていたんです。
砂団子を夢中で作ったり、虫を虫かごいっぱいに捕まえてみたり…!
(あ、今の子供たちはしないのかな…)
自分のことを、自分の想いを具現化してあげる優しさと強さが本当にこれからは大切。
誰かのためや世間のための、我慢とか忍耐とかは要らない。
あなたのために強さは使ってあげよう。
そのあとで自然と人に優しさや強さを使うことができるから。

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